「義務感」と「うしろめたさ(罪悪感)」は、他人軸で生きている時にだけ生じる感覚です。
自分のやりたいことではなく、他人に合わせていたり流されたりして生きていれば、常に義務感に苛まれることとなるかもしれません。
「義務感」とは、「(本当はやりたくないけど)これは義務だからやらなくちゃ」という感覚のこと。
「義務感」に従って生きている限り人は幸せにはなれません。
自分に正直に生きていれば、「義務感」は生じません。
目次
義務感とは
ここに書く「義務」とは国が定めている法律や条例のことではなく、いわゆる道徳的なものであることを予めお断りしておきます。
自分の本音ではないことをしているときにだけ生じます。
例えば、仕事中に少し具合が悪くなったので本当は家へ帰って休みたいと思う。
「多少具合が悪いくらいで仕事に穴をあけるわけにはいかない」と思って職場へ残り続ける日本人は多いです。
これが義務感です。
「社会から受け入れてもらいたい」という「承認欲求」から生じる意識です。
そこまで意識が明晰でない人は、無意識のままに義務感に縛られて「自分が必要とすること(家に帰って休む)」を行動に移すことができません
具合が悪いときに必要なことは、他者に迷惑をかけないことでも、「さすが」と思われるために無理して頑張ることでもなく、家へ帰って療養すること。
しかし他人軸で生きていると、「他者からどう思われたい・思われたくない」ばかりが気になって、本来なすべきことを気分よく行動することができません。
後で説明する「うしろめたさ」にも関係があります。
別の例を出せば、子育てを歓びからではなく義務感で行っている人たちもいます。
彼らは本当に自分が望んで決めて子育てをしているわけではなく、何となく、流されて、「そうするものだから」、結婚して子育てをしています。
本当に自分が望むことをしているという明確な自覚がないので、子育ても義務感からやらざるを得ません。
少なくとも「自分で選んだ」という意志があれば、無意識の義務感に苛まれることはありません。
しかし、自分で自分を欺いているのにも関わらずそのことに無自覚なので、押し殺された怒りは必然的に子供へと向かってしまいます。
義務感で育てられた子供は内面に「罪悪感」を植え込まれます。
そして、「自分のせいで親が苦しんだ」という、不必要な苦しみを背負うこととなります。
うしろめたさ
多くの人が口にする罪悪感とは、「自分がやりたいようにやる(本音に従って生きる)」ときに感じる「うしろめたさ」のことです。
本物の罪悪感ではないのだけれど、罪悪感であると思い込んでいる。
前述の例でいえば、「本当は家へ帰って休みたい、そうできたらどんなにかいいだろう」と思いつつ、そうすることに「うしろめたさ」を感じているので行動へ移せない。
多くの人が「罪悪感」と呼んでいるのはこの「うしろめたさ」のこと。
- 少しくらいの体調不良は表に出さないのがマナー
- これくらいのことで休むべきではない
- 感情を表に出してはいけない
自分を大切にすることを教えられていないので、相手や他者よりも自分を大切にすることに「うしろめたさ」を感じてしまいます。
多くのケースではこれがブロックとなって、日本の人たちは自分を大切にする行動を起こすことができません。
ですがそれはとても不健全なことです。
個人が高度に自立している北欧では、皆「自分に必要なこと」を淡々と行います。
大人ですから、自分のケアをしっかりするのは当たり前のこと。
大人同士なので、他者の行動に干渉し合いません。
周囲の雑音を気にして自分を押し殺して生きる日本とは対照的です。
罪悪感とは
本物の罪悪感とは、本当に悪いことをしてしまった(と思っている)ときに生じる罪の意識のことです。
例えば事故で他者を死なせてしまった。
困窮していたときに誰かの財布を盗んでしまった。
故意に誰かを傷つけてしまった。
そのような行いに対して生じる「罪の意識」が罪悪感と呼ばれるものです。
この場合、自分の行いを反省し、悔い改め、罪を償うことで解消していきます。
人間は誰でも過ちを犯すものですから、「赦す」ことを覚えるのも人間としての学びの一つなのです。
反省して改悛した後は、心機一転前を向いて進んでいく。
それを成長と呼びます。
義務感と責任感の違い
私たちに義務は何もありません。
しかし、誰しも自分の行動や選択に対する責任を負っています。
例えば、私たちには「子供を持たなければならない義務」はありません。
子供を持つか持たないかは完全に個人の自由意志に委ねられています。
しかし、一度自分の意志において「子供を持つ」と決めて実行したのであれば、「子供を養育する責任」が発生します。
最近では「表現の自由」と「プライバシー侵害」のせめぎ合いが問題となってきています。
自分が発信した内容が他者のプライバシーを侵害したと言われ民事訴訟に持ち込まれるケースも急増しています。
「何かを表現するのは自由だけれど、自分の発言に対する責任は負いなさいよ」というのが「自由」の概念。
自由には責任が伴うのです。
- 結婚する・しないの自由
- 子供を持つ・持たないの自由
- 仕事に就く・就かないの自由
- 仕事を辞める・辞めないの自由
- 誰かと付き合う・付き合わないの自由
選択は必ず「自分の決断」でなくてはなりません。
この決断において、自分自身に忠実であること。
それだけが求められています。
自分自身に忠実であるとは、「やりたい」「やりたくない」に正直であるということです。
そして一度自分がそれを決めたら、責任をしっかりと負うこと。
他人軸で生きていると「義務感」が生じる
「他人を軸にして」生きている人は、常に義務感と、それに起因する不満に苛まれます。
義務感や罪悪感、そして慢性的な不満から解放される唯一の方法は、「自分の人生は自分で決めて生きる」と腹を括って実行すること。
今まで流されて生きてきたのであれば、ある時点で「自分は流されて生きるという選択をした」ということを認めるのです。
その認識をしっかり持てば、他者へ責任転嫁することは止められるでしょう。
規範意識を手放して自分を生きる
周りへの遠慮や恐れ(うしろめたさ)から自分を大切にする行動がとれない場合、「自分の中に刷り込まれている規範意識」をしっかりと認識し、手放す必要があります。
「手放す」とは、信じるのを止めるという意味です。
- たとえ周りに少し迷惑をかけても自分の休息を優先する
- 自分がやりたくないことはやらない。たとえそれが相手をがっかりさせることとなっても
- 聞きたくない話は聞かない
- 勧められても要らないものはもらわない、食べたくないものはたべない、飲みたくないものは飲まない
- 頼まれてもやりたくなければ断る
ブロックを手放して自分らしく振舞うことができるようになることで、他者の自由も尊重できる人へと変化していきます。
- 具合が悪いときに休めること
- 自分の気持ちを大切にできること
- 自分がやりたいことをのびのびとできること
- 周りにそれを応援してくれる人がいること
こういう状況で私たちは自分でいることの歓びを実感し、自然と感謝の念が湧き上がります。
それを「幸せ」と呼ぶのです。
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